行田足袋の始まりは、今から300年以上前の江戸時代にさかのぼります。
当時 忍藩(現在の行田)にて松平のお殿様が忍城下町で足袋づくりを奨励していました。
それに加え、忍藩周辺より木綿の栽培が盛んだったことや江戸から中山道で吹上宿まで人々の行き来が盛んだったことにより「忍のさしたびめいさんなり」(左図 左中央下)と言われる程全国的に有名になりました。
「東海木曽両道中図鑑(行田市郷土資料博物館 所蔵)」
主に城下町の町人や武士の奥方が足袋づくりをしておりました。
中には身分を隠したくノ一も足袋をつくっていたという話もございます。
「町人が足袋づくりをする様子」
足袋が二股に分かれたのは、下駄や草履に合わせて二股に分かれさせたという説と武士が戦の際により力を踏ん張りやすくする為に二股に分かれさせた説があります。
明暦の大火(1657年)以降、それまで革の足袋が主流でしたが価格が高騰した為、綿の足袋が主流になりました。
また、現在のコハゼで留める形ではなく紐で結わく形でした。
「砲術形状図式(行田市郷土資料博物館 所蔵)」
江戸時代から明治時代に移り鎖国していた日本が開国し、海外からミシンを始め様々な技術が導入されたり、銀行から資金を調達できた事から足袋づくりが益々盛んになりました。
「大沢商店(行田市郷土資料博物館 所蔵)」
昭和時代に入り、昭和初期には行田だけで8,400万足もの足袋をつくっていました。
全国から生地や道具や機械を扱う業者や職人たちが集まり行田だけで200軒以上の足袋屋がありました。
地図オレンジ色の部分が昭和初期の頃の行田市内の足袋屋です。
この頃の1929年、創業者の中澤政雪は市内でアイスクリームを売りながら足袋の下請け業を始めました。
「足袋工場の様子(行田市郷土資料博物館 所蔵)」
「昭和初期頃の行田市内の足袋業者地図」
昭和中期以降 政雪から受け継いだ中澤武男は1949年、中澤足袋有限会社を設立。足袋の下請業を営みながら自社オリジナルの足袋をつくり始める。
無名の足袋を知ってもらう為、当時研修旅行でゆかりのあった熱海の芸者さん達に足袋を配り、全国から出稼ぎに来ていた芸者さん達が帰郷し、中澤足袋の名が知れ渡っていきました。
「熱海に研修旅行に来た先々代(最左)と職人達」
1965年には きねや足袋株式会社に改名し、全国に行商して足合わせをしたり、地下足袋もつくり始めました。
きねや足袋の三本杵のロゴは三味線きねや一門から名を授かり、先々代が3兄弟であり、毛利元就3本の矢の話が好きであったことから3本の杵をトレードマークとしました。
「1975年頃のきねや足袋工場」
先々代武男から中澤憲二へ受け継がれ、1995年にはベトナムへ進出し、日本からの職人たちが現地のスタッフに住み込みで教え、現在に至っております。
今や技術レベルは日本と同等になり、日本の行田工場と並んで大事な協力工場として稼働しております。
「ベトナム協力工場(ホーチミン)」
2006年にはお客様向けに足袋づくりを見学できる 足袋の館を開館。1人でも多くの方に足袋について知ってもらいたい思いで始めました。
2014年に先代憲二から中澤貴之へと受け継がれ、和装や作業で履く足袋だけでなく新しい足袋の使い方を提案しております。
「足袋の館」